2012年11月10日土曜日

小手先のことはこれ以上言いたくない

 ヘルベルト・プロムシュテット指揮のバンベルク交響楽団を聴く(113日、アクロス福岡シンフォニーホール)。曲目はベートーベン《第7交響曲イ長調》とブルックナー《交響曲第4番変ホ長調》。
 うまい、それにつきる。もちろん小さな傷はあった。人間だから当たり前。取るに足らない。それなりに感激もした。やはりオケのライブはいい。
 しかし、それ以上、何を書けばよいのか。
 ベートーベン《第7番》は今年だけでオケのライブを聴くのは2回目。過去何度もライブで聴いている。ブルックナーも《第4番》ではないが今年2回目。《第4番》自体も福岡に来て3回目か。福岡ではコンサート自体が多いと言えないし、私自身それほど熱心なクラシックの聴衆ではない。しかし、それでもコンサートに行くたびに、18世紀19世紀のヨーロッパのクラシック音楽ばかり、つまり同じような曲目ばかりを聴かされている。それも、なにかひたすら規範を忠実に志向しようとする演奏が多い。
 その結果、コンサート事後の話題は、「あそこの音がよかったね」とか「フレーズのとり方がうまかったね」とか「誰それとはあそこの解釈が少し違っていたね」など、小手先のことばかり。
 クラシック音楽と言うくらいだから、その演奏会のレパートリーは、大半が1819世紀のヨーロッパの音楽であるのは仕方がないと言えば、たしかにそうかも知れない。しかし、あまり同じような音楽ばかり聴かされていると、これが果たして芸術なのだろうかと思ってしまう。芸術活動に必須の創造とは縁のない世界の出来事に感じてしまう。
 たしかに、演奏も創造活動の一つであることには間違いない。しかし、創造であるからには、その前に破壊が必然的に伴ってくる。既存の価値観を疑い、それを超える何かを訴え提示するからには。
 もちろん、個々の演奏家は細部にはそうした工夫を様々に凝らしながらやっている。その工夫の跡に創造性を発見できないのは、私にそれを発見する能力がないからだと言われれば、そうかも知れない。
 ただ、この状態が続くと、クラシック音楽の社会的における価値はどんどんと低下していくだろう。クラシック音楽自体が、博物館に展示されている過去の遺物と変わらず、歴史的意義はあるが現実社会とは無縁のものという扱いを受けてしまいかねない。
 以上のことは、じつは、演奏家の問題ではない。むしろ演奏会そのものの問題、具体的には演奏会を企画し制作し主催する側の問題である。クラシック音楽の演奏会が政治や社会を反映している必要ないけれど、あまりにも能天気なものが多過ぎやしないか。言いたいのは、演奏会の社会的意義や文化的意義を総合的・創造的に考慮した企画制作の要性である。