2012年6月28日木曜日

不測の事態を乗り越えて:九大フィル第188回定期

 2012年6月27日(水)、アクロス福岡シンフォニーホールで「九大フィルハーモニー・オーケストラ第188回定期演奏会」を聴く。指揮はクラリネット奏者の横川晴児(元NHK交響楽団首席奏者)。実は予定されていた堤俊作が体調不良のため、急遽、横川が指揮をすることになった。曲目はスメタナ『連作交響詩/わが祖国』より《ボヘミアの森と草原から》、ブラームス《クラリネットソナタ第1番ヘ短調》(管弦楽編曲:ルチアーノ・ベリオ)、そしてチャイコフスキー《交響曲第6番ロ短調/悲愴》。横川はブラームスの作品では「吹き振り」をしたことになる。
 今回、予定されていた指揮者の体調不良という不測の事態を乗り越え、稔りある成果を出した九大フィルに敬意を表したい。また、そのように導いた横川の音楽能力と情熱も高く評価したい。両者とも不測の事態があったなどとは感じられないほどの落ち着きであった。
 プログラム最初のスメタナの曲では九大フィルはやや緊張気味で、表現がおとなし過ぎるように感じた。その分、乱れの少ない端正な演奏に終始し、徐々にスメタナの音楽世界に導いてくれた。私個人はこれまでスメタナの音楽に共感するところが少なかったのであるが、なぜか今回、非常に集中して聴くことが出来、その音楽世界に心地よく魅せられた。
 ブラームス《クラリネットソナタ第1番》については評価が難しい。理由はピアノ伴奏を管弦楽に編曲して、協奏曲のスタイルを模したところにある。ベリオによる編曲は管弦楽だけを聴いているといかにもブラームス的であり、よく出来ている。しかし、その音量がクラリネットの音量を上回っていることが多く、独奏クラリネットの演奏をたのしむことができない。また本来協奏曲ではないのだから独奏楽器による超絶技巧的パッセージがないのは当然であるが、協奏曲のスタイルを模したために耳に愉悦を与えてくれるそうしたパッセージをつい期待してしまう。それが叶えられないことによる欲求不満が生じたのである。
 チャイコフスキー《悲愴》は聴き応えがあった。何よりも管弦楽がよく鳴る。チャイコフスキーは中途半端な楽器配分をしないので、大体いつも響きが豊かで、聴いていて気分がよい。ただし、第2楽章冒頭のチェロの主旋律に対するクラリネットやバスーンによる和音吹奏伴奏などはいわゆる中途半端な楽器配分の箇所であり、演奏の巧拙が顕わになるところで、九大フィルも多少もたついて聞こえた。総体的に言えば、第4楽章のテンポが速すぎて若干の違和感があったことを除けば、横川の指揮は細部の表情に気を配ったもので、過去にこの作品を何度も耳にした私の耳を充分に満足させてくれた。なお、第1楽章第2主題などで、フレーズの区切りに余計な休符を感じさせてしまうところが個人的には多少気になった。
 さて、ここまで書いてきて、私は、九大フィルが大学の同好の士が集まったいわゆるアマチュア演奏団体であることを失念していたことに気付いた。上の批評はアマチュア対象に行うものではない。つまり、それほど、その演奏はよかったわけだ。そのように考えると、いわゆるプロのオーケストラ(例えば九響)はアマチュアのオーケストラとの間に演奏の巧拙を超えた違いを構築しないと、ちょっとまずいことになるのではないか‥‥、お節介かも知れないが、そんな思いにとらわれてしまった。
(中村滋延)

2012年6月24日日曜日

天神での音楽情報発信基地:ミュージック・ファクトリー


 アクロス福岡の「第5期ミュージック・ファクトリー」が6月22日にスタートした。
 ミュージック・ファクトリーは、アクロス福岡の主催で九州大学の学生とアーティストが共同で企画するコンサートシリーズ。場所はアクロス福岡1階のコミュニケーションエリア(喫茶スペース)。様々な音楽に触れる機会を市民に提供しようとするもので、入場無料の30分ほどのミニコンサートが、6月から12月までの間、月1回の割で行われる。コミュニケーションエリア自体は必ずしも音楽のみを聴くには音響的にふさわしい空間ではないが、音楽と気楽に接することが出来る場所として雰囲気的に申し分ない。
 なお、これまでは九州大学の一研究室が私的に企画に関わってきたが、今年から九州大学大学院芸術工学府のHME(ホール・マネジメント・エンジニア)育成プログラムが授業の一環として正式に支援することになった。
 第1回は「歌の力」と題して椋智佐(ボーカル&ピアノ)と野口裕介(ギター)によるデュオ。曲目はいずれも親しみやすいポップスやジャズナンバー。30分という時間は彼らの音楽世界をじっくり味わうには充分ではないが、彼らの世界を知るための導入としては不足ない。彼らも自分たちの間近に開かれるライブの宣伝をしていたが、まさにそのような機会としてこのミュージック・ファクトリーを機能させてほしい。ミュージック・ファクトリーに来ればライブやコンサートの情報が実演付きで手に入る場所―言わば音楽情報発信基地―として多くの人々に認識してもらえるようになれば、この企画の意味は非常に大きい。
 次回は7月21日(土)18:00-18:30、「GUITAP」と題したクラシックギターとタップダンスによるコラボレーション。詳細こちら
(中村滋延)

2012年6月23日土曜日

ティンパニの表現力に驚嘆


 6月22日あいれふホールでの「永野哲と仲間達vol.1―日本人の歌心とアメリカンなティンパニ作品」を聴いた。
 永野は2009年に定年退団を迎えるまで九響(九州交響楽団)のティンパニ奏者を30年以上務めた。彼の在籍当時の九響のコンサートでは、永野のティンパニが鳴り始めた途端、管弦楽全体の演奏がピシッと締まって聞こえはじめたことを何度か経験している。
 今回のコンサートは、退団後指揮者として活動しはじめた永野がティンパニ奏者としての存在感を久しぶりにアピールしたものとなった。曲目は、杉浦正嘉《in》、武満徹《Songs》、伊福部昭《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》、ジョン・ベック《Three Movements for Five Timpani》、サム・ラッフリング《Timpani Concert》。共演はメゾソプラノが小野山幸夏、ピアノが山田珠貴。うち、杉浦とラッフリングの作品がティンパニ独奏曲。武満作品はショット版ピアノ伴奏楽譜をもとにティンパニパートを付加したもの。ラッフリング作品はティンパニとピアノ編曲伴奏による二重奏。
 いずれも楽曲内容を十分に把握し、鍛えられた技にもとづくすばらしい演奏。楽曲内容の十分な把握は、音量変化のつけ方、間のとり方、余韻の鳴らし方に具現されていた。鍛えられた技は、バチの万全の運動性にあることはもちろん、ペダルの扱いの的確さに特に具現されていた。
 演奏曲目の中で白眉と言えるものは伊福部昭《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》である。声とティンパニの二重奏がこれほど表現力に満ちたものであったのかということに、正直、驚いた。メゾソプラノの小野山は声量十分、声に艶があり、表情付けが巧みで音楽の細部までもらさず聴き手に届けてくれる。それに対する永野のティンパニは、この楽器の音色の多様性を存分に引き出し、また表現の幅を大きく取って声のパートを対位法的に支える。冒頭から最後まで、聴き手(である私)はその集中を切らすことなく、聴き入ってしまった。また伊福部の作品自体も実によく出来ている音楽――まとまりがあるが多様性に富み、表情の変化が聴き手を飽きさせない音楽――であり、前衛に凝り固まっていた30年以上前の私は、伊福部の音楽を否定しまくっていたけれど、勘違いも甚だしかったと思う。
 サム・ラッフリング《Timpani Concert》も山田珠貴のピアノ伴奏も含め感動的な演奏。次はぜひとも管弦楽伴奏のオリジナル版で聴いてみたい。九響は永野の永年の功績に応えるためも含めて、こうした協奏曲を九響の演奏会で取り上げてほしい。
(中村滋延)

2012年6月7日木曜日

ブラームス大学祝典序曲の向こうを張って……《九大百年祝典序曲》

 5月26日、アクロス福岡シンフォニーホールでの「九州大学創立百周年記念コンサート」において、私の作曲による《九大百年祝典序曲》が荒谷俊治指揮の九大フィルハーモニー・オーケストラによって公開初演された。実際の初演はその2週間前、5月12日の九州大学50周年記念講堂での「九州大学創立百周年記念式典」での同一の指揮者演奏団体による。実は昨年こそが百周年にあたっていたのだが、東日本大震災の甚大な被害に配慮して、式典そのものを1年遅らせた経緯がある。
 2003年、私が所属していた九州芸術工科大学は、九州大学と統合した。そのことで九州大学は旧帝国大学の流れを引く日本の7つの総合大学の中で、唯一複数の芸術家を要する学部を持つようになった。この特徴を活かして、他の総合大学では真似の出来ないこと、つまり大学に所属する活躍中の作曲家に創立百周年記念式典のための音楽の作曲を依頼することが、百周年事業推進委員会で決定されたのである。
 有難い決定であった。九州大学の百周年という節目に私自身が居合わせたという巡り合わせ。担当理事や九大フィル顧問との打ち合わせを通して九大の歴史や世界で活躍する卒業生の存在、特に九州福岡の文化芸術に与えた九大の役割などについて直に知ることができたこと。これは、なんとしてもいい曲を書きたい、と思った。
 ブラームスに《大学祝典序曲》という名曲がある。彼が名誉博士号を授与されたことに感謝の意を込めてある大学のために作曲したもので、当時の学生歌がちりばめられた親しみやすい曲である。親しみやすいだけでなく、学生歌を主題とした高度な作曲技法による非常に巧みな構成の音楽である。
 このブラームスの曲に刺激を受けて、「黒田節」や「どんたく囃子」、また九州大学の学生歌や応援歌、「伊都キャンパスイメージソング」などの旋律を私は《九大百年祝典序曲》にもちりばめることにした。ただしこれらの旋律が単なるメドレーを構成するのではなく、首尾一貫した音楽的持続の中で出現し、展開していくように工夫した。そして何よりも祝典序曲として、明るく力強い曲想をめざして作曲した。重要部分の楽譜のPDFが下記のところにあるので、参照されたい。以下の解説はその楽譜に基づいている。

九大百年祝典序曲スコア抜粋(PDF)

第1部(A1)は特徴的な序奏に続いて九州大学学生の明るい前向きな学生生活を象徴するような速いテンポの音楽が演奏される。(pp.3-5)
第2部(B)はゆっくりしたテンポで「黒田節」をもとにした旋律が流れる。九州福岡の文化都市としての雰囲気の一端を提示する。(pp.8-9)
第3部(A2)はふたたび速いテンポで、序奏に続いて学生生活の自由な生活、若さゆえに許される奔放な雰囲気を描く。(p.15)
第4部(C)は「どんたく囃子」が登場する。最初はゆっくりしたテンポで、主旋律に対して非常に技巧的な副旋律が絡む(p.19)。自身では作曲技法の腕の見せ所と思っている。その後、速いテンポで「どんたく囃子」が演奏され、
第5部(A3)に流れ込む。ここでは「九州大学学生歌」が序奏モチーフのくり返しの中に金管楽器によって突如浮かび上がって朗々と歌い上げられる(pp.27-28)。「九州大学学生歌」は、その後、木管楽器によって技巧的に装飾変奏される。
第6部(D)ここでは昨年3月に発表された伊都キャンパスイメージソング「愛し伊都の国 -嚶鳴天空広場の歌-」をモチーフにした静かな音楽が演奏される。(pp.35-36)
第7部(A4)は第1部とほとんど同じ伴奏が演奏されるが、それに乗って演奏される主旋律は「九州大学応援歌」。続いてその応援歌のモチーフによる音楽が盛り上がりをみせて全合奏の中で華々しく終わる。(pp.44-45)

 荒谷俊治先生は九州大学の出身(法学部と文学部)。指揮者として内外で活躍され、80歳を超えられた今も現役、指揮界の大御所である。《九大百年祝典序曲》に愛情を注いでくださり、丹念かつ丁寧に、そして何よりも的確に曲の表情付けをしていただいたことは感謝に堪えない。九大フィルも学生オーケストラ特有の素直さ情熱に満ちた好演であった。
 九大の節目となるイベントに自身の専門領域(作曲)で関わらせていただいた慶びを、今、噛みしめているところである。
(中村滋延)

まさに対照の妙、ヤルヴィの才能の証し

6月5日、アクロス福岡シンフォニーホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団を聴く。曲目はリスト《ピアノ協奏曲第1番変ホ長調》とマーラー《交響曲第5番嬰ハ短調》。独奏はアリス=紗良・オット。
 フランクフルト放送交響楽団についてはエリアフ・インバル指揮のマーラー交響曲CDを耳にしたことがあり、全般的に端正な演奏であったことが印象に残っている。しかしワンマイク録音のせいか、私の再生機器では十分にその魅力を知ることができず、それほど聴き込むことはしなかった。今回、実演を耳にして、力強さと繊細さを兼ね備えた実力派オーケストラであることをあらためて確認した。
 リストのピアノ協奏曲におけるアリス=紗良・オットの独奏はスケール感こそないものの、ピアノを美しく響かせ(これは声部間の音量バランスが巧みであることの証しであり)、細部を実に丁寧に表現していた。パーヴォ・ヤルヴィ指揮のオーケストラはツアーの中だるみ時期にあたっていたせいか、冒頭のアインザッツが若干乱れ、その後も演奏に落ち着きを失ったような瞬間が稀にではあるが訪れた。しかし全体的に表情の起伏は十分で、後半に向けての盛り上がりは聴き手(である私)を十分に惹きつけた。
 この日の私の席は2階の最後列。いつも思うことだか、アクロス福岡シンフォニーホールの階上席後方で聴くピアノの音ははなはだ頼りない。音響計測ではどこの席でも同じように響いていることになっている。たしかに一旦鳴り響いた音が残響としては階上席後方にも十分に届くが、ピアノの場合だとそのアタックが十分に届かない。独奏にスケール感がないという印象も、そのことが影響しているかも知れない。
 マーラーの交響曲第5番については、作品そのものがまことに素晴らしい、と演奏云々以前に言い切ってしまいたい。まさに名曲だ。何よりもマーラーはオーケストレーションの魔法使いである。次から次へとオーケストラの魅力ある響きが、一貫した音楽的持続の上に展開されていき、まったく聴き手を飽きさせない。オーケストラの魅力をもっとも感じることの出来る音楽である。それを現前させたのがヤルヴィの指揮。力に任せることなく、またどの声部も他に埋没させぬようにしながら、しかし強調すべきところははっきりとそうするという指揮である。一つ一つのクレシェンドにまるで意思の力が宿っているかのようだ。聴き手の耳は自ずと音楽の進行に集中させられた。
 そうした中で特筆すべき箇所があった。第4楽章から第5楽章に入ってからの1分余りの箇所である。第4楽章アダージェットは弦楽器のみで演奏される。もちろん、非常に美しい。しかし、楽章間の休みを置かずに開始される第5楽章の冒頭からの演奏は、それ以上に美しかった。この部分は管楽器のみで演奏される。弦楽器のみの第4楽章によって管楽器の音色に対して聴き手の耳が澄んでいる状態であることをヤルヴィは十分に知り尽くしていて、ここで管楽器のアンサンブルを美しく響かせることに集中したのである。まさに対照の妙。ヤルヴィの才能の証しをひとつ挙げろと言われれば、私は迷わず今回の演奏のこの箇所を挙げたい。
(中村滋延)