2012年11月10日土曜日

小手先のことはこれ以上言いたくない

 ヘルベルト・プロムシュテット指揮のバンベルク交響楽団を聴く(113日、アクロス福岡シンフォニーホール)。曲目はベートーベン《第7交響曲イ長調》とブルックナー《交響曲第4番変ホ長調》。
 うまい、それにつきる。もちろん小さな傷はあった。人間だから当たり前。取るに足らない。それなりに感激もした。やはりオケのライブはいい。
 しかし、それ以上、何を書けばよいのか。
 ベートーベン《第7番》は今年だけでオケのライブを聴くのは2回目。過去何度もライブで聴いている。ブルックナーも《第4番》ではないが今年2回目。《第4番》自体も福岡に来て3回目か。福岡ではコンサート自体が多いと言えないし、私自身それほど熱心なクラシックの聴衆ではない。しかし、それでもコンサートに行くたびに、18世紀19世紀のヨーロッパのクラシック音楽ばかり、つまり同じような曲目ばかりを聴かされている。それも、なにかひたすら規範を忠実に志向しようとする演奏が多い。
 その結果、コンサート事後の話題は、「あそこの音がよかったね」とか「フレーズのとり方がうまかったね」とか「誰それとはあそこの解釈が少し違っていたね」など、小手先のことばかり。
 クラシック音楽と言うくらいだから、その演奏会のレパートリーは、大半が1819世紀のヨーロッパの音楽であるのは仕方がないと言えば、たしかにそうかも知れない。しかし、あまり同じような音楽ばかり聴かされていると、これが果たして芸術なのだろうかと思ってしまう。芸術活動に必須の創造とは縁のない世界の出来事に感じてしまう。
 たしかに、演奏も創造活動の一つであることには間違いない。しかし、創造であるからには、その前に破壊が必然的に伴ってくる。既存の価値観を疑い、それを超える何かを訴え提示するからには。
 もちろん、個々の演奏家は細部にはそうした工夫を様々に凝らしながらやっている。その工夫の跡に創造性を発見できないのは、私にそれを発見する能力がないからだと言われれば、そうかも知れない。
 ただ、この状態が続くと、クラシック音楽の社会的における価値はどんどんと低下していくだろう。クラシック音楽自体が、博物館に展示されている過去の遺物と変わらず、歴史的意義はあるが現実社会とは無縁のものという扱いを受けてしまいかねない。
 以上のことは、じつは、演奏家の問題ではない。むしろ演奏会そのものの問題、具体的には演奏会を企画し制作し主催する側の問題である。クラシック音楽の演奏会が政治や社会を反映している必要ないけれど、あまりにも能天気なものが多過ぎやしないか。言いたいのは、演奏会の社会的意義や文化的意義を総合的・創造的に考慮した企画制作の要性である。

2012年10月28日日曜日

均整美より自由奔放さに魅力を感じた庄司紗矢香のヴァイオリン

 昨日(10月27日)、「北九州国際音楽祭」で庄司紗矢香のヴァイオリン演奏会(黒崎ひびしんホール・大ホール)を聴いてきました。ピアノはジャンルカ・カシオーリ。曲目はヤナ—チェク《ヴァイオリン・ソナタ》、ベートーベン《ヴァイオリンソナタ第10番》、ドビュッシー《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》、シューベルト《幻想曲ハ長調》。
 ここのところの異常な睡眠不足からくる睡魔と闘いながらも、なんとか頑張って集中して聴きました。確かな技巧とまじめな楽曲解釈に感嘆しましたが、なかでも秀逸はシューベルト《幻想曲ハ長調》。均整美を優先した音楽より、即興的な、幾分、自由奔放な表現を要求される音楽に庄司本来の感性がよりよく発揮されているように思いました。アンコール2曲目に演奏されたアルフレード・シュニットケ《古い様式による組曲》から〈第五曲パントマイム〉の演奏も彼女の感性がよりストレートに発揮されていて私は感激しました。彼女にはこうした現代曲にも積極的に取り組んでほしいと思いました。
 ピアノのジャンルカ・カシオーリもなかなか素晴らしい。私はグレン・グールドとの親縁性を感じました。《幻想曲ハ長調》冒頭などは、ピアノ1台で鳴っているとは思えないほどの多彩な音色で私の耳を引き寄せました。
 なお、「北九州国際音楽祭」のプログラム冊子の文章から感じられるこの音楽祭企画の「能天気ぶり」には違和感を覚えました。別に音楽祭が政治や社会問題を反映する必要はありませんが、なにか現実社会を離れたオタクのはしゃぎぶりばかりが目につきました。
 黒崎ひびしんホールは今年7月にオープンしたばかり。私の席は1階の前から9列目。ヴァイオリンの音が十分の音量で私の耳に届いてきました。非常に響きのよいホールのように感じます。ただし、ホワイエの雰囲気が味気なさ過ぎるし、狭いようにも感じました。加えて、塗料のにおいがまだ強烈に残っていて、この種の臭いに敏感な私のような者にはちょっと辛いものがありました。

2012年9月29日土曜日

「気合い」がすべてにまさった

 九州交響楽団第319回定期演奏会(9月24日、アクロス福岡シンフォニーホール)を聴いた。指揮は現田茂夫。曲目は、パウル・ヒンデミット《ウェーバーの主題による交響的変容》、カール・オルフ《カルミナ・ブラーナ》。
 いずれも20世紀の作品である。と言うよりも、我々日本人にとっては、昭和年代に作曲された音楽、と言った方が時代的な近さを感じるはずだ。ヒンデミットの作品は昭和18年、オルフのは昭和11年である。モーツァルトやベートーベンもすばらしいが、20世紀の作品には、やはり感性的な近縁性を感じる。こうした20世紀以降のクラシック音楽を普段からもっと聴きたい。管弦楽の慣習を無視した前衛音楽は、コンサートのレパートリーにはなり得ないが、こうしたクラシック音楽を踏襲した20世紀音楽はもっと演奏されてよい。
 《ウェーバーの主題による交響的変容》は非常に親しみやすい。古典派から前期ロマン派音楽のスタイルの20世紀における良い意味での「焼き直し」。ヒンデミットの作曲技法が冴えわたっている。特にオーケストレーションが巧みで、非常によく響く。現田の指揮はこの音楽の古典的(非ロマン派的)な側面を強調した演奏。キビキビして気持ちがよい。第3楽章後半の装飾的な助奏を担当したトーマス・シュミットのフルート演奏は秀逸。
 《カルミナ・ブラーナ》は大人数(300名以上?)の合唱を伴ったカンタータで、劇的表現の起伏に富んだ音楽。しかし後期ロマン臭はまったくなく、 演奏に長時間を要し(1時間以上)、大音響が長く会場をつつみこんでも、なにかつねに親近感を漂わせた音楽。つまり親しみやすい。「展開」というより「並置」が基本的な構造になっている。
 今回の演奏は、細部をあれこれあげつらいたいという気持ちを超えて、「気合い」がすべてに勝り、響きの中に聴衆を包み込み、有無を言わさず感激をもたらしてくれた。現田はこの音楽をひとつの持続の中にきちんと位置づけ、中だるみを最小限に抑えて、最後まで聴き手を引っ張って行った。
 残念だったのは、ステージの広さの関係からか、3名のソロ歌手が管弦楽の後ろに位置していたことだ。そのため視覚的に存在観が稀薄で、楽章によっては管弦楽との音量バランスが悪くて声が充分に聴き取れない、ということがあったからだ。

2012年8月26日日曜日

抑制された歌唱法と表現の幅の的確さ—福岡ゾリステンコンサートシリーズ1

 「シューマン うた 物語」と題する『福岡ゾリステンコンサートシリーズ1を聴いた(826日、ひびしんホール)を聴いた。
 出演者は福岡ゾリステン主宰のバリトン原尚志、ソプラノ青木つくし、ピアノ山本佳代子である。演目は演奏会名のごとく、シューマンの歌曲集『ミルテの花』『ゲーテのヴィルヘルム・マイスターにもとづくリートと歌』からの抜粋と,『詩人の恋』全曲を中心に、他に団伊玖磨と木下牧子の歌曲数編。
 福岡ゾリステンは2010年に発足し、これまで高折續や河野克典を講師に招いての歌曲講座や、それらと関連させた研究発表演奏会を継続して催しており、その活動は熱意のこもったもので、非常に気合いも入っている。
 原が歌った『詩人の恋』は、201012月の第1回研究会での演奏を含めて今回が2度目の聴取の機会。以前もそれなりにたのしんだが、今回はそれ以上。抑制された歌唱法と表現の幅の的確さを、私は心からたのしんだ。声質もじつに味わい深いものを持っている。ただ、声域によって声質にばらつきが多少はなくもないが、味わいを減じるものではない。これらは今後の成熟とともに矯められていくであろう。
 青木は木下牧子の歌曲の演奏がよかった。声質が曲がにあっているし、日本語がよく聴き取れた。
 山本のピアノはスケールが大きく、歌のパート以上に音楽構築に積極的に関わっていた。音楽構造が非常に聴き取りやすい演奏であった。このことは、私が演奏の良否を判断するさいの重要な基準になっている。
 「ひびしんホール」の中ホール(310席)は前衛的な舞台芸術にも対応した多目的ホールである。クラシック・コンサートのためには響きの面で相応しいのか、かなり心配して会場に足を運んだのだが、杞憂に終わった。前半に座った最前列席も、後半での最後列も、充分に声もピアノもよく響いた状態で聴き取れた。問題はステージ上の演奏者の「聴こえ」の状態であるが、これも演奏者に直接訊いたところ、悪くはないと言うことであった。だとすれば、会場の雰囲気も悪くないし、けっこう「使えるホール」になる。
 さて、最近、第外国語のドイツ語やフランス語の学習が敬遠されている状況で、歌曲に親しむ機会が非常に減っているように感じる。私自身も大手のCDショップにおいてもシューマンの『詩人の恋』の入ったCDがなかなか見つからなかった経験がある。優れた詩の世界を声とピアノで描いていく歌曲は音楽表現の根幹を成すものであり、その魅力に一旦目覚めると他のジャンルとは別格の感動を与えてくれるジャンルである。そう簡単に見捨てられるものではない。その意味では、今回、日本歌曲を取り上げたのも「詩」と「言葉」の面でも、正解であった。
 しかし詩や言葉はあれども、音楽である限り重要なのは音楽構造である。その意味で、音楽構造が聴き取りやすい演奏を高く評価する傾向が私にはある(私は作曲家ですから)。今後のために望むのは、音楽構造を的確に把握し、その構造を聴衆が容易に把握できる演奏を目指すことである。(D.F.ディスカウの偉大さは、音楽構造の把握の的確さにあると私は思っている。)

2012年8月21日火曜日

年に1回の定期だけなんて!‥‥アクロス弦楽合奏団第6回定期演奏会 


 819日(日),アクロス福岡シンフォニーホールで「アクロス弦楽合奏団 第6回定期演奏会」を聴いた。曲目はロッシーニ《弦楽のためのソナタ第6番ニ長調》、J.S.バッハ《2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調》BWV1043、ヴィヴァルディ《4つのヴァイオリンのための協奏曲変ロ長調》RV553、グリーグ《2つの悲しい旋律》op.34、スーク《弦楽合奏のためのセレナード変ホ長調》op.6
 アクロス弦楽合奏団はアクロスヴァイオリンセミナーの講師景山誠治の呼び掛けによって発足した弦楽合奏団である。地域在住の団員はわずかで、団員の多くは東京で別個に演奏活動をしている。その関係で、定期演奏会は年に回しか行うことが出来ないようだ。その意味では福岡からの音楽文化の創造発信を直接的に目指しているのはなく、福岡の人に鑑賞機会を与えることを目指しているようだ。つまり外来や中央からの演奏団体の「買い取り」公演と大差ない。せっかく福岡ゆかりのアクロスの名前を冠しているのであれば、それ以上のことをアクロス福岡は地域の人々のためやってほしい。
 演奏そのものは、東京のオーケストラの首席奏者レベルの者を集め、アクロス福岡の全面的バックアップを受けてリハサールなども集中的に行っているだけに、「うまい」。ロッシーニやグリーグ、スークなどの普段余り聴く機会のない音楽を聴くことができたのも、嬉しかった。
 ただし演奏上ではいくつかの不満もあった。バッハでは2つのソロヴァイオリンパートの音量に差がありすぎて、ソロヴァイオリン同志の絡み合いがあまり聴き手に伝わってこない。第1楽章では合奏にメリハリを欠いた部分もあった。また、グリークではその第2楽章においてチェロの主旋律を彩るはずのヴァイオリンパートが音量的に目立ちすぎ、その主旋律が充分に伝わってこない。スークにも同様のところがあった。また、グリーグやスークなどの曲は、本来もう少し大きめの編成の弦楽合奏でやった方が、旋律線がくっきり伝わり(特に低音弦)、和声そのものも倍音効果でより豊かに響く。和声音楽様式のロマン派以降においては、通常のオーケストラの弦楽パートくらいの数による合奏の方が私は好みだ。つまり逆に言えば、バロック様式の室内弦楽合奏団の良さがこれらのグリーグやスークの演奏ではあまり感じられなかったということである。
 この合奏団は指揮者を置かないのがポリシーなのだろう。しかしおそらく指揮者がおれば、楽器群間の音量や表情のバランスの調整がつき、例えば「チェロの主旋律を彩るはずのヴァイオリンパートが音量的に目立ちすぎ、主旋律が充分に伝わってこない」というようなことはないだろうと思った。
 なお、ヴィヴァルディの4つのソロヴァイオリンという協奏曲の編成はおもしろい。一つの音楽線を4つのヴァイオリンが分奏するという形態は非常に効果的で、特にその第2楽章ラルゴの美しさには固唾をのんで聴き入ってしまった。私自身、この編成で音楽を作曲してみようというアイデアを得たほどだ。
 さて、毎度のことだが、今回のプログラム冊子にも不満があった。写真入りで演奏者のことを紹介しているのはよいと思うが、バッハとヴィヴァルディの協奏曲でソロを弾いているのが誰か、プログラムにはまったく触れられていない。2階4列の私の席では演奏者の顔などまったく見えず、プログラム冊子の写真とも照合がつかない。これではソロ担当の演奏者にも失礼だ。
 それと、合奏団のこれまでの活動記録がプログラム冊子には書かれていない。福岡ゆかりの演奏団体としてアクロス弦楽合奏団のファンを増やしていこうとすれば、これは必須だ。また、今後どのような方向を目指していこうとするのか、地域の人にアピールするメッセージもほしい。
 あらためて言いたい。外来や中央からの演奏団体の「買い取り」公演との明確な差別化をはかるようにしてほしい。福岡のひとのために。

2012年8月2日木曜日

チラシ、プログラム冊子も コンサートの一部、チョン・ミョンフン指揮のアジア・フィル

 8月1日、チョン・ミョンフン指揮アジア・フィルハーモニー管弦楽団をアクロス福岡シンフォニーホールで聴きました。曲目はシューベルト《交響曲第7番ロ短調「未完成」》とベートーベン《交響曲第3番変ホ長調「英雄」》。クラシック音楽大好き人間である私は何を聴いても、音楽に集中できる時間が持てること自体がうれしく、それなりにいつも感動します。
  今回も同様です。チョンの指揮は表情が細かいところまで息づいていて、私は大好きです。前の月に聴いたゴロー・ベルク指揮九響の《英雄》ようにテンポが速すぎると感じることもなく、ベルクが与えた乱れた感じの第2楽章の複前打音の箇所も巧みに処理されていました。さすがと感じました。
 しかしオーケストラはやはり「寄り合い所帯」の感は拭えず、深い満足を覚えた、とはとても言うことはできません。これはヨーロッパで大都市の有名オーケストラの定期を聴いてきた体験からの感想です。事前鳴り物入りの紹介が大きい演奏団体に関しては、期待値も比例して大きいだけに、評価基準がどうしてもきびしくならざるを得ません。したがって、知人たちが素晴らしい演奏だったと、皆、褒め称えていましたが、これは比較の上での話です。アインザッツは不揃いな箇所もないわけではなく、楽器間のバランスもいまいちの箇所が散見でき、第3楽章のホルンはよかったものの、管楽器のアンサンブルもいつも安心して聴けるばかりではありませんでした。何かコクが感じられません。弦楽合奏ももっと上手い楽団はいくらでもあるように思いました。しかしそれはそれで、聴き手としてはたのしんだのですが‥‥‥。
 それにしても今日のコンサート、チラシには演奏曲目として「ベートーベン《交響曲第3番変ホ長調作品55「英 雄」》ほか」と書いてあるだけでした。これは不親切きわまりないと思いました。いろいろなクラシック音楽の楽しみがあることは否定しませんが、クラシック音楽の最も本格的な楽しみ方、いわゆる通(つう)の楽しみ方は音楽の構造聴取です。クラシック音楽の構造は複雑で、事前に楽譜でも見て予習しておかないと、コンサートでは構造聴取による感動までなかなか行き着きません。だから、チラシに曲目が書いていないのは不親切きわまりないのです。予習できないからです。実はこの予習することは、コンサートでクラシック音楽を聴く際の大きなたのしみのひとつなのです。
  また、アジア・フィルハーモニー管弦楽団の実態も伝わりにくい。本拠地はどこで、メンバーは固定しているのか、毎回の寄せ集めなのか、何も情報がありませ ん。プログラム冊子には団員の紹介は一切なく、コンサートマスターの名前すら書いていません。ようやくチラシの束の中に英文表記の団員名リストを発見しま した。記録するという観点から言えば、プログラム冊子にきちんと団員リストを表記すべきだと思います。「寄せ集め」の管弦楽団ならばなおさらです。
 今回のツァーでは、福岡以外のどこでコンサートを実施するのかも書いておらず、1日の福岡のコンサートの位置づけも不明でした。また、なぜアジアなのかもよく分かりません。欧米にないクラシック音楽のあたらしい潮流を創造しようとしているのか。そうであるならば、曲目編成にも独自なものを。たとえばアジア出身の作曲家の作品を紹介するなどの試みがあってもかまわない。いや、おおいにそうすべきではないでしょうか。
 今回もアクロス福岡主催のコンサートのプログラム冊子はお粗末の一言。曲目解説ついては、それを書くことで聴衆にどのような情報を与えようとしているのか、さっぱり理解できません。文章そのものもまずい。執筆者の柿沼唯は書く力を本来持っていると思うが、正直言って、気を抜いているようにしか思えぬ文章でした。また、ページレイアウトも行間が狭く、はなはだ読みにくい。こういうのはきちんとしたテンプレートがあるはずなのだから、それに適うように原稿を書いてもらえ ばよいのではないか、と思いました。
 会場はけっこう空席が目立ちました。もったいない、と思います。チョン・ミュンフンの名前があってもこれなのです。けっして福岡の聴衆が悪いのではありません。主催者の創意工夫と聴衆への愛で、空席は減らせると思います。偉そうなことを言って申し訳ありませんが、私の周りの一致した意見でした。

2012年7月21日土曜日

至福のオペラ体験《トスカ》ー兵庫県立芸術文化センター

 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2012《トスカ》を聴いた(720日、兵庫県立芸術文化センターKOBELCOホール)。トスカ=並河寿美、カヴァラドッシ=福井敬、スカルピア=斉木健詞、管弦楽=兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)、指揮=佐渡裕、演出=ダニエレ・アバド、装置・衣装=ルイジ・ベルゴ、他。
 ちょうど一年前、同劇場でのオペラをはじめて体験し(J・シュトラウス《こうもり》)、公演自体もすばらしかったものの、たのしみながらオペラ鑑賞に集中できるその雰囲気にいたく感動した。今回もチケット発売開始直後にすぐ予約するほどその公演をたのしみにし、期待していた。そして期待はまったく裏切られることがなかった。まさに至福の時間を過ごした。
 まずは大胆な舞台装置におどろいた。非常に象徴性のつよい舞台である。中央に大きな円形回り舞台があり、その左右を巨大な複数の柱がとり囲む。その舞台上の大道具小道具の配置と照明とによって「第一幕:サンタドレア・デッラヴァッレ教会」「第二幕:ファルネーゼ宮殿」「第三幕:サンタンジェロ城の屋上」を見事に描き分けていく。特に第二幕では、傾いた円形回り舞台の一番高いところにスカルピアが位置し、トスカやカヴァラドッシを見下ろすことによって、理不尽な権力を象徴する。また歪んだ像を映し出す巨大な鏡を正面に設置し、彼らの内面の思いや苦悩を聴衆に読み取らせるようにする。
 アバドの演出は象徴性の強い舞台装置とは逆に、演技の細部にオーソドックスな心配りの行き届いたもので、筋書きと音楽の進行に非常に自然な感じでなじませていた。象徴的な舞台装置が、むしろ演技の細部への聴衆の視線を集中させる意図のもとに作られたようにさえ思わせた。
 歌手陣はいずれも好演。カヴァラドッシの福井はスケール感こそやや乏しいものの、丁寧な歌い方と美声で聴衆を魅了した。トスカの並河は第一幕ではやや表情が硬く、高音の伸びもやや不安定であったが、第二幕以降は不安定なところなどまったくなく、表情が実に的確で、その振幅の大きさで聴衆に深い満足を与えた。スカルピアの斉木は最初の一声でその威圧的な性格を端的に提示した。声量も十分で、演技もわかりやすく、スカルピアの性格を過不足なく表現した。ただ、その外見にもう少し残忍さを感じさせるようにしてほしかった。客席から見た感じはスマートな現代青年に見えてしまって残忍冷酷の感じは希薄。個人的には、例えばレオ・ヌッチのスカルピアの容貌・演技などはこの役のひとつの規範のように思う。
 佐渡は、プッチーニのこの音楽が音楽としていかによく出来たものであるかを、その指揮によってあますことなく示した。オペラでは、物語内容の現実時間と、音楽によって表現される物語言説の時間とは、まったく異なったものだ。物語言説の時間を不自然に感じさせないのが音楽の力そのものである。その力はその時間が非現実であることさえ忘れさせる。聴衆が音楽時間に感性思考をすべて委ねるからである。その委ねさせる力をプッチーニの音楽はしっかりと持っている。そのことを、音楽の劇的性格とライトモチーフ的音楽語法を巧みに引き出すことによって、佐渡は明確に示した。
(中村滋延)

2012年7月19日木曜日

なぜ「海と水」‥‥? 第46回九州サマーフェスティバル

 第46回九州サマーフェスティバル第一夜「九州交響楽団と福岡出身の若手音楽家による『海と水』」を聴いた(716日、アクロス福岡シンフォニーホール)。演奏曲目は、ワーグナー歌劇《さまよえるオランダ人》序曲、チャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番変ロ短調》、ベートーベン《交響曲第7番イ長調》。ピアノ独奏は高雄有希、指揮はゴロー・ベルク。
 「海と水」というテーマとコンサートの内容との関係がどう考えてもわからない。コンサート開催日が「海の日」だから。日本財団が助成しているから。また「福岡出身の若手音楽家」とは高雄のことなのだろう。プロフィールを読むと彼は福岡生まれらしいから。しかしそれ以上は彼と福岡との関わりは書かれていない。九州サマーフェスティバルには県や市からも助成金が出ているはずで、その理由には福岡出身の若手音楽家を育てたいという思いが込められている。であれば、もう少し彼と福岡との関わりについて書きようがあると思う。
 ちょうどこの一週間前にこのベルクと九響の定期演奏会を聴いている。その定期の曲目はモーツァルトとベートーベン。ところがその定期の編成の方が大きい。コントラバスは8人。時代が下がって管弦楽編成が大きくなっているはずの「サマーフェスティバル」の曲目の編成の方が小さい。コントラバスは6人。弦はそれぞれのパートで明らかに1プルトずつ減っている。これは逆だろう。九響の経営上から配慮によるもので、指揮者の意思ではないように思うが。
 ところで、ゴロー・ベルクはほとんど暗譜で指揮をする。なかなかの勉強家のようだ。明快な指揮ぶりで、管弦楽奏者には分かりやすそうに思える。終始インテンポでぐいぐいと音楽を進めていく。ただ1拍目の強拍にアクセントがつきすぎて、たとえて言えば極端な「楷書」的演奏。したがってベートーベン《第7番》でのテンポの速い楽章ではそれなりに聴かせるが、テンポのゆっくりした楽章では本当に味わいがない。特に第2楽章などはテンポが速すぎて、味わっている余裕がない。この第2楽章では、複前打音の箇所が不揃いで、音が非常に汚く感じる。一週間前の《英雄》の第2楽章でも同じことを感じたが、まさか、バロックのように複前打音を完全に拍の内部でとっていることはないと思うのだが。
 高雄のチャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番》独奏にはがっかり。チラシやプログラム冊子に麗々しく書かれていたプロフィールはインチキではないかと思わせるほど。音も硬質で、およそ美しさを感じさせる音ではない。また、演奏にタメがなく、まったく一本調子のままで進行する。第2楽章ではところどころ管弦楽とずれを生じさせ、第3楽章ではミスタッチとも何度か出くわした。最後まで弾き終わって「よく止まらずに弾ききったね」と思わず励ましの拍手をしてしまったほどだ。
 ところで、40年以上も続いた「九州サマーフェスティバル」は今年で終わるそうだ。クラシック音楽に親しむ機会が減るのは私のような「クラシック音楽大好き人間」にはつらいことだが、「九州サマーフェスティバル」の場合は寿命かなと思う。第一夜と銘打ちながら、そのプラグラム冊子には同フェスティバルの他コンサートの情報はまったく載っておらず、プログラム冊子自体はB5用紙大の4ページしかなく、その中身もきわめて稀薄。曲目解説の文章もお粗末。どのようにして集客しているのか不明だけれど、楽章間に大きな拍手があったり、客席でがさがさと音をさせたり、未就学児童の声がしたりで、客席の聴衆が互いに音楽体験を共有しているという実感がほとんどない。感動には縁遠い。まあ、個人的には、「クラシック大好き人間」の私は音楽に集中する時間があるだけでうれしく、たのしみましたが、しかしこれではクラシック人口は増えないなあ、と実感した。

2012年7月13日金曜日

ビートが聞こえてくるような演奏 —— ゴロー・ベルク指揮の九響


 九響第318回定期「ゲルマン音楽の神髄」を聴いた(7月9日、アクロス福岡シンフォニーホール)。曲目はモーツァルト《魔笛》序曲、《ピアノ協奏曲ニ長調K.537「戴冠式」》、ベートーベン《交響曲第3番 英雄》。指揮はゴロー・ベルク、ピアノは菊池洋子。
 コンサート名での「ゲルマン音楽」とは何のことか、よく分からない。モーツァルトはゲルマンというよりもラテンの香りが濃厚だし、ベートーベンはオランダ系で、狭義のゲルマンではない。指揮者がドイツ人ということで「ゲルマン音楽の神髄」なのか。なにか発想がイージーだ。
 さて、このコンサートの個人的なお目当てが実は《戴冠式》。第2楽章のラルゲットの主題が私の高校生時代にテレビの化粧品CMで流れていた。若いきれいなお母さんが、幼い我が子が遊んでいるのを見守っていて、その子がお母さんのところに駆け寄るとそっと抱き寄せる。そこにこの主題が寄り添うように流れる。もう、最高だった。その思いが残っていて、実は自分の結婚式での新郎新婦の入場の音楽に、この主題を知人のピアニストに弾いてもらったことさえある。
 ベルクの指揮はパキパキという音がまるでビートとして聞こえてくるかのような演奏。活力を感じさせる演奏と言えないこともないが、味わう間もなく音楽が次々と進行していく。当然のことながらテンポも全体的に早め。また異様に低音楽器が強調されているし、木管楽器の音量が抑えめで、管弦楽としての響きのバランスが取れているようには思えなかった。ちなみに私の席は1階25列(やや後ろ寄り)の30番(やや上手寄り)。
 菊池のピアノは軽やかで表情の変化に富んでいて、まるでジャズピアノを聴いているかのよう。それ自体はなかなか魅力がある。ただ、この協奏曲では、ベルクの指揮との関連で、テンポが早め。特に私が個人的にお目当てにしていた第2楽章は、ラルゲットではなくてまるでアレグレット。「違う、おい、違うよ」と、演奏中、心の中で叫び続けていた。
 ベートーベン《英雄》も同様にテンポが速め。特に第1楽章が始まった時に、その速いテンポに驚いた。そして危惧した。案の上、推移部後半のタンタタ・タンタタ・タンタタという八分音符(タン)と十六分音符二つ(タタ)の組み合わせによるリズム音型が明確に演奏されていなかった。この音型はこの楽章間に何度も登場し、この楽章の運動性をもっともよく感じさせる魅力ある楽節を形成する。ベルクの指揮でテンポの速さによってこの音型のリズムのキレがなくなってしまった。
 第2楽章では冒頭の低音弦の複前打音が目立ちすぎて小節の1拍目がきれいに揃っているようには聞こえない。ここでも低音楽器が強調されていて、全体の音量バランスを崩している。また中間部での3つの声部の対位法的絡み合いが聞こえる部分も楽器間の音量バランスを欠いて、個々の声部が独立して聞こえない。特に二分音符による声部が目立たない。これを目立たせると、十六分音符による声部の動きが大変活き活きと聞こえてくる筈なのだが。
 第3楽章では逆にベルクの速いテンポが上手く機能した。
 第4楽章になるとベルクのテンポに慣れてきたのか、さほど違和感なく聴いた。ただし、ここでも楽器間の音量バランスを調整して聴かせるべき声部を浮かび上がらせてほしいと思うところもあった。ト短調のリズミカルな楽句が続くところにフルートの音階進行音型(リズミカルな楽句を対位法的に強調する音型)が相の手を入れる箇所において、そのフルートの音が他の楽器に埋もれてしまっていた。
 総体的な印象としては「聴き逃せない指揮者」(音楽之友)に選ばれるほどの注目を集める指揮者と思うことはできなかった。
 こうして聴き終えると、ベートーベン《英雄》は本当に名曲だということをあらためて感じた。特に第2楽章。他の指揮者の棒で聴いてみたい。
(中村滋延)

2012年7月7日土曜日

身近に感じることの大切さ——学生オーケストラの魅力


 今から40年以上も前、つまり私が高校生から大学生の頃、学生オーケストラ(以下、学生オケ)の演奏水準は今とは比較にならないほどお粗末であった。高校時代、音楽大学受験のために師事していたピアノの先生がコンチェルトを独奏するというので、ある学生オケの演奏会に出かけたが、独奏者が気の毒になるほどにそのオケの演奏はひどかった。大学時代、中部圏を代表する国立大学の学生オケの演奏会に行った時、一緒にいた知り合いのドイツ人が「あれは音楽ではない。彼らはあれでたのしいのだろうか」と憤慨していた。学生オケは義理で行くものであり、音楽を聴くために行くものではない、というのが長い間の私の認識であった。
 その後ずっと学生オケを聴くことはなかったが、2001年に九州芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)に着任した時に芸工オケ(現九州大学芸術工学部フィルハーモニー管弦楽団)の定期演奏会を、それこそ義理で、聴きに行った。私の先入観は打ち破られた。まったく学生オケということを忘れて聴き入ったのである。もちろん演奏の細部には傷がないわけではない。しかしそれらは音楽に聴き入るための障害にはまったくならなかった。昔とは比較にならないほどに演奏技術がうまくなっていたのである。彼らは子供の頃から音楽に触れる機会に恵まれているのだろう。事実、音盤(今はCD及びDVD、昔はLP)の種類も量も今は豊富で、かつ安い。楽器も手に入りやすくなっているに違いない。この体験以降、学生オケの演奏会は私にとって義理で行くものではなくなった。
 いわゆる“プロのオーケストラ”が福岡では九州交響楽団(九響)ひとつだけなので、オーケストラを聴きに行くためには学生オケの演奏会に通うことが多くなる。芸工オケ、九大フィル、福岡学生オケ、など。それらは昔に比べて上手くなったと言っても、大学の同好の志によるアマチュア演奏団体であることには変わりがない。音楽演奏だけに専念できる“プロのオーケストラ”の演奏技術水準に及んでいないことは明白である。もしそれらが同じ水準であるとすれば、それこそ問題だ。しかし感動の度合いは同じか、むしろ学生オケの方が上回っていることが多い。なぜか。
 その理由はその学生オケの存在を聴き手が「身近に感じ」ているということに尽きる。私の場合、日頃接している学生達が舞台上で懸命に演奏している姿を見ていると、私自身があたかも関係者としてリハーサルやゲネプロを聴いているような感じで集中する。そして、この集中が私に感動をもたらした。
 そもそも感動とは絶対的で純粋なものなのだろうか。否、むしろいろいろな外的条件や心理状況などに左右されるものではないか。恋人が弾くショパンを聴く女の子にとっては、そのショパンは感動ものであるに違いない。発表会で幼い我が娘がひくソナチネを親は感動の涙を流して聴くだろう。そこで演奏される音楽を「我がこと」として捉えたことがもたらした感動である。一流の演奏家と音響機能抜群のホールを用意したから、それで即、感動するということにはならない。
 CDやインターネットで一流の音楽を聴くことが当たり前になっているこの時代にこそ、演奏会では、感動を得るために「身近」というのが大切なキーワードになりそうに思う。
(中村滋延)

2012年7月1日日曜日

身近に感じることが感動を‥‥、福岡学生シンフォニーオーケストラ

6月30日アクロス福岡シンフォニーホールにて「福岡学生シンフォニーオーケストラ第9回定期演奏会」を聴く。指揮は寺岡清高。曲目は、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲》、J.シュトラウスJr.《青き美しきドナウ》、マーラー《交響曲第1番巨人》。福岡学生シンフォニーオーケストラ(以下、福岡学生オケ)は、九州大学芸術工学部フィルハーモニーや九州工業大学交響楽団、西南学院大学管弦楽団、福岡大学交響楽団、福岡教育大学管弦楽団による合同オーケストラである。
 4日前に九大フィルの定期演奏会を聴いたばかりなのだが、この日の福岡学生オケの演奏にも非常に感激した。もちろん彼らの演奏技量が高かったことと、音楽にかける熱意と愛情によるものである。しかしそれ以外にも、幾分、特殊な理由もある。それは、両オーケストラとも私が授業で接している学生がかなり入っており、そのことでオーケストラ自体の存在を非常に「身近に感じ」たからである。誤解を恐れずに言うと、これらの演奏会では、私自身があたかも関係者としてリハーサルやゲネプロを聴いているような感じがしたのである。つまり、「我がこと」として、まるで自分自身が指揮をしているかのように、ヴァイオリンを弾いているかのように、顧問かマネージャーであるかのように感じ、集中していたのである。実は、この集中が、私に感激をもたらしたのだ。
 感激というのは絶対的なものではなく、純粋なものでもない。様々な状況や関係によって、ひとつの事象に対しての感激の度合いは異なる。一流の演奏家と音響機能抜群のホールを用意したから、はい、それで「OK」とはならない。それらは状況や関係の一つでしかない。今回は「身近に感じ」たという状況や関係が感激の大きな要因だったのである。(「身近に感じ」させることは、じつはプロのオーケストラにとっても大切なことなのだが、これについては別の機会に。)
 しかしそれとても、確かな演奏が土台にあってこその話である。そのことをよく表していたのがマーラー《交響曲第1番巨人》。この曲は個々のモチーフやパッセージに意味が与えられており、モチーフやパッセージの絡み合いによって様々な新たな意味が絶対音楽的持続の上に生じる。寺岡の指揮は、それらの個々のモチーフやパッセージの意味を的確に感じさせるように仕向けていた。例えば、第1楽章のトランペットのファンファーレ(ステージの裏で演奏させていた)、第2楽章のオスティナート、第3楽章のオーボエの主題など。福岡学生オケはその指揮によく応えていた。そして圧巻は第4楽章。構造聴取という知的作業を圧倒的な音量と迫力で無効にし、身体的な快感で聴き手を包み込んでくれた。うん、これもオケの魅力。そのこと可能にしてくれたのが、合同オケならではの多人数による弦楽パートである。それが後期ロマン派の豊穣な音の世界を十分に堪能させてくれたのだ。
(中村滋延)

2012年6月28日木曜日

不測の事態を乗り越えて:九大フィル第188回定期

 2012年6月27日(水)、アクロス福岡シンフォニーホールで「九大フィルハーモニー・オーケストラ第188回定期演奏会」を聴く。指揮はクラリネット奏者の横川晴児(元NHK交響楽団首席奏者)。実は予定されていた堤俊作が体調不良のため、急遽、横川が指揮をすることになった。曲目はスメタナ『連作交響詩/わが祖国』より《ボヘミアの森と草原から》、ブラームス《クラリネットソナタ第1番ヘ短調》(管弦楽編曲:ルチアーノ・ベリオ)、そしてチャイコフスキー《交響曲第6番ロ短調/悲愴》。横川はブラームスの作品では「吹き振り」をしたことになる。
 今回、予定されていた指揮者の体調不良という不測の事態を乗り越え、稔りある成果を出した九大フィルに敬意を表したい。また、そのように導いた横川の音楽能力と情熱も高く評価したい。両者とも不測の事態があったなどとは感じられないほどの落ち着きであった。
 プログラム最初のスメタナの曲では九大フィルはやや緊張気味で、表現がおとなし過ぎるように感じた。その分、乱れの少ない端正な演奏に終始し、徐々にスメタナの音楽世界に導いてくれた。私個人はこれまでスメタナの音楽に共感するところが少なかったのであるが、なぜか今回、非常に集中して聴くことが出来、その音楽世界に心地よく魅せられた。
 ブラームス《クラリネットソナタ第1番》については評価が難しい。理由はピアノ伴奏を管弦楽に編曲して、協奏曲のスタイルを模したところにある。ベリオによる編曲は管弦楽だけを聴いているといかにもブラームス的であり、よく出来ている。しかし、その音量がクラリネットの音量を上回っていることが多く、独奏クラリネットの演奏をたのしむことができない。また本来協奏曲ではないのだから独奏楽器による超絶技巧的パッセージがないのは当然であるが、協奏曲のスタイルを模したために耳に愉悦を与えてくれるそうしたパッセージをつい期待してしまう。それが叶えられないことによる欲求不満が生じたのである。
 チャイコフスキー《悲愴》は聴き応えがあった。何よりも管弦楽がよく鳴る。チャイコフスキーは中途半端な楽器配分をしないので、大体いつも響きが豊かで、聴いていて気分がよい。ただし、第2楽章冒頭のチェロの主旋律に対するクラリネットやバスーンによる和音吹奏伴奏などはいわゆる中途半端な楽器配分の箇所であり、演奏の巧拙が顕わになるところで、九大フィルも多少もたついて聞こえた。総体的に言えば、第4楽章のテンポが速すぎて若干の違和感があったことを除けば、横川の指揮は細部の表情に気を配ったもので、過去にこの作品を何度も耳にした私の耳を充分に満足させてくれた。なお、第1楽章第2主題などで、フレーズの区切りに余計な休符を感じさせてしまうところが個人的には多少気になった。
 さて、ここまで書いてきて、私は、九大フィルが大学の同好の士が集まったいわゆるアマチュア演奏団体であることを失念していたことに気付いた。上の批評はアマチュア対象に行うものではない。つまり、それほど、その演奏はよかったわけだ。そのように考えると、いわゆるプロのオーケストラ(例えば九響)はアマチュアのオーケストラとの間に演奏の巧拙を超えた違いを構築しないと、ちょっとまずいことになるのではないか‥‥、お節介かも知れないが、そんな思いにとらわれてしまった。
(中村滋延)

2012年6月24日日曜日

天神での音楽情報発信基地:ミュージック・ファクトリー


 アクロス福岡の「第5期ミュージック・ファクトリー」が6月22日にスタートした。
 ミュージック・ファクトリーは、アクロス福岡の主催で九州大学の学生とアーティストが共同で企画するコンサートシリーズ。場所はアクロス福岡1階のコミュニケーションエリア(喫茶スペース)。様々な音楽に触れる機会を市民に提供しようとするもので、入場無料の30分ほどのミニコンサートが、6月から12月までの間、月1回の割で行われる。コミュニケーションエリア自体は必ずしも音楽のみを聴くには音響的にふさわしい空間ではないが、音楽と気楽に接することが出来る場所として雰囲気的に申し分ない。
 なお、これまでは九州大学の一研究室が私的に企画に関わってきたが、今年から九州大学大学院芸術工学府のHME(ホール・マネジメント・エンジニア)育成プログラムが授業の一環として正式に支援することになった。
 第1回は「歌の力」と題して椋智佐(ボーカル&ピアノ)と野口裕介(ギター)によるデュオ。曲目はいずれも親しみやすいポップスやジャズナンバー。30分という時間は彼らの音楽世界をじっくり味わうには充分ではないが、彼らの世界を知るための導入としては不足ない。彼らも自分たちの間近に開かれるライブの宣伝をしていたが、まさにそのような機会としてこのミュージック・ファクトリーを機能させてほしい。ミュージック・ファクトリーに来ればライブやコンサートの情報が実演付きで手に入る場所―言わば音楽情報発信基地―として多くの人々に認識してもらえるようになれば、この企画の意味は非常に大きい。
 次回は7月21日(土)18:00-18:30、「GUITAP」と題したクラシックギターとタップダンスによるコラボレーション。詳細こちら
(中村滋延)

2012年6月23日土曜日

ティンパニの表現力に驚嘆


 6月22日あいれふホールでの「永野哲と仲間達vol.1―日本人の歌心とアメリカンなティンパニ作品」を聴いた。
 永野は2009年に定年退団を迎えるまで九響(九州交響楽団)のティンパニ奏者を30年以上務めた。彼の在籍当時の九響のコンサートでは、永野のティンパニが鳴り始めた途端、管弦楽全体の演奏がピシッと締まって聞こえはじめたことを何度か経験している。
 今回のコンサートは、退団後指揮者として活動しはじめた永野がティンパニ奏者としての存在感を久しぶりにアピールしたものとなった。曲目は、杉浦正嘉《in》、武満徹《Songs》、伊福部昭《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》、ジョン・ベック《Three Movements for Five Timpani》、サム・ラッフリング《Timpani Concert》。共演はメゾソプラノが小野山幸夏、ピアノが山田珠貴。うち、杉浦とラッフリングの作品がティンパニ独奏曲。武満作品はショット版ピアノ伴奏楽譜をもとにティンパニパートを付加したもの。ラッフリング作品はティンパニとピアノ編曲伴奏による二重奏。
 いずれも楽曲内容を十分に把握し、鍛えられた技にもとづくすばらしい演奏。楽曲内容の十分な把握は、音量変化のつけ方、間のとり方、余韻の鳴らし方に具現されていた。鍛えられた技は、バチの万全の運動性にあることはもちろん、ペダルの扱いの的確さに特に具現されていた。
 演奏曲目の中で白眉と言えるものは伊福部昭《アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌》である。声とティンパニの二重奏がこれほど表現力に満ちたものであったのかということに、正直、驚いた。メゾソプラノの小野山は声量十分、声に艶があり、表情付けが巧みで音楽の細部までもらさず聴き手に届けてくれる。それに対する永野のティンパニは、この楽器の音色の多様性を存分に引き出し、また表現の幅を大きく取って声のパートを対位法的に支える。冒頭から最後まで、聴き手(である私)はその集中を切らすことなく、聴き入ってしまった。また伊福部の作品自体も実によく出来ている音楽――まとまりがあるが多様性に富み、表情の変化が聴き手を飽きさせない音楽――であり、前衛に凝り固まっていた30年以上前の私は、伊福部の音楽を否定しまくっていたけれど、勘違いも甚だしかったと思う。
 サム・ラッフリング《Timpani Concert》も山田珠貴のピアノ伴奏も含め感動的な演奏。次はぜひとも管弦楽伴奏のオリジナル版で聴いてみたい。九響は永野の永年の功績に応えるためも含めて、こうした協奏曲を九響の演奏会で取り上げてほしい。
(中村滋延)

2012年6月7日木曜日

ブラームス大学祝典序曲の向こうを張って……《九大百年祝典序曲》

 5月26日、アクロス福岡シンフォニーホールでの「九州大学創立百周年記念コンサート」において、私の作曲による《九大百年祝典序曲》が荒谷俊治指揮の九大フィルハーモニー・オーケストラによって公開初演された。実際の初演はその2週間前、5月12日の九州大学50周年記念講堂での「九州大学創立百周年記念式典」での同一の指揮者演奏団体による。実は昨年こそが百周年にあたっていたのだが、東日本大震災の甚大な被害に配慮して、式典そのものを1年遅らせた経緯がある。
 2003年、私が所属していた九州芸術工科大学は、九州大学と統合した。そのことで九州大学は旧帝国大学の流れを引く日本の7つの総合大学の中で、唯一複数の芸術家を要する学部を持つようになった。この特徴を活かして、他の総合大学では真似の出来ないこと、つまり大学に所属する活躍中の作曲家に創立百周年記念式典のための音楽の作曲を依頼することが、百周年事業推進委員会で決定されたのである。
 有難い決定であった。九州大学の百周年という節目に私自身が居合わせたという巡り合わせ。担当理事や九大フィル顧問との打ち合わせを通して九大の歴史や世界で活躍する卒業生の存在、特に九州福岡の文化芸術に与えた九大の役割などについて直に知ることができたこと。これは、なんとしてもいい曲を書きたい、と思った。
 ブラームスに《大学祝典序曲》という名曲がある。彼が名誉博士号を授与されたことに感謝の意を込めてある大学のために作曲したもので、当時の学生歌がちりばめられた親しみやすい曲である。親しみやすいだけでなく、学生歌を主題とした高度な作曲技法による非常に巧みな構成の音楽である。
 このブラームスの曲に刺激を受けて、「黒田節」や「どんたく囃子」、また九州大学の学生歌や応援歌、「伊都キャンパスイメージソング」などの旋律を私は《九大百年祝典序曲》にもちりばめることにした。ただしこれらの旋律が単なるメドレーを構成するのではなく、首尾一貫した音楽的持続の中で出現し、展開していくように工夫した。そして何よりも祝典序曲として、明るく力強い曲想をめざして作曲した。重要部分の楽譜のPDFが下記のところにあるので、参照されたい。以下の解説はその楽譜に基づいている。

九大百年祝典序曲スコア抜粋(PDF)

第1部(A1)は特徴的な序奏に続いて九州大学学生の明るい前向きな学生生活を象徴するような速いテンポの音楽が演奏される。(pp.3-5)
第2部(B)はゆっくりしたテンポで「黒田節」をもとにした旋律が流れる。九州福岡の文化都市としての雰囲気の一端を提示する。(pp.8-9)
第3部(A2)はふたたび速いテンポで、序奏に続いて学生生活の自由な生活、若さゆえに許される奔放な雰囲気を描く。(p.15)
第4部(C)は「どんたく囃子」が登場する。最初はゆっくりしたテンポで、主旋律に対して非常に技巧的な副旋律が絡む(p.19)。自身では作曲技法の腕の見せ所と思っている。その後、速いテンポで「どんたく囃子」が演奏され、
第5部(A3)に流れ込む。ここでは「九州大学学生歌」が序奏モチーフのくり返しの中に金管楽器によって突如浮かび上がって朗々と歌い上げられる(pp.27-28)。「九州大学学生歌」は、その後、木管楽器によって技巧的に装飾変奏される。
第6部(D)ここでは昨年3月に発表された伊都キャンパスイメージソング「愛し伊都の国 -嚶鳴天空広場の歌-」をモチーフにした静かな音楽が演奏される。(pp.35-36)
第7部(A4)は第1部とほとんど同じ伴奏が演奏されるが、それに乗って演奏される主旋律は「九州大学応援歌」。続いてその応援歌のモチーフによる音楽が盛り上がりをみせて全合奏の中で華々しく終わる。(pp.44-45)

 荒谷俊治先生は九州大学の出身(法学部と文学部)。指揮者として内外で活躍され、80歳を超えられた今も現役、指揮界の大御所である。《九大百年祝典序曲》に愛情を注いでくださり、丹念かつ丁寧に、そして何よりも的確に曲の表情付けをしていただいたことは感謝に堪えない。九大フィルも学生オーケストラ特有の素直さ情熱に満ちた好演であった。
 九大の節目となるイベントに自身の専門領域(作曲)で関わらせていただいた慶びを、今、噛みしめているところである。
(中村滋延)

まさに対照の妙、ヤルヴィの才能の証し

6月5日、アクロス福岡シンフォニーホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団を聴く。曲目はリスト《ピアノ協奏曲第1番変ホ長調》とマーラー《交響曲第5番嬰ハ短調》。独奏はアリス=紗良・オット。
 フランクフルト放送交響楽団についてはエリアフ・インバル指揮のマーラー交響曲CDを耳にしたことがあり、全般的に端正な演奏であったことが印象に残っている。しかしワンマイク録音のせいか、私の再生機器では十分にその魅力を知ることができず、それほど聴き込むことはしなかった。今回、実演を耳にして、力強さと繊細さを兼ね備えた実力派オーケストラであることをあらためて確認した。
 リストのピアノ協奏曲におけるアリス=紗良・オットの独奏はスケール感こそないものの、ピアノを美しく響かせ(これは声部間の音量バランスが巧みであることの証しであり)、細部を実に丁寧に表現していた。パーヴォ・ヤルヴィ指揮のオーケストラはツアーの中だるみ時期にあたっていたせいか、冒頭のアインザッツが若干乱れ、その後も演奏に落ち着きを失ったような瞬間が稀にではあるが訪れた。しかし全体的に表情の起伏は十分で、後半に向けての盛り上がりは聴き手(である私)を十分に惹きつけた。
 この日の私の席は2階の最後列。いつも思うことだか、アクロス福岡シンフォニーホールの階上席後方で聴くピアノの音ははなはだ頼りない。音響計測ではどこの席でも同じように響いていることになっている。たしかに一旦鳴り響いた音が残響としては階上席後方にも十分に届くが、ピアノの場合だとそのアタックが十分に届かない。独奏にスケール感がないという印象も、そのことが影響しているかも知れない。
 マーラーの交響曲第5番については、作品そのものがまことに素晴らしい、と演奏云々以前に言い切ってしまいたい。まさに名曲だ。何よりもマーラーはオーケストレーションの魔法使いである。次から次へとオーケストラの魅力ある響きが、一貫した音楽的持続の上に展開されていき、まったく聴き手を飽きさせない。オーケストラの魅力をもっとも感じることの出来る音楽である。それを現前させたのがヤルヴィの指揮。力に任せることなく、またどの声部も他に埋没させぬようにしながら、しかし強調すべきところははっきりとそうするという指揮である。一つ一つのクレシェンドにまるで意思の力が宿っているかのようだ。聴き手の耳は自ずと音楽の進行に集中させられた。
 そうした中で特筆すべき箇所があった。第4楽章から第5楽章に入ってからの1分余りの箇所である。第4楽章アダージェットは弦楽器のみで演奏される。もちろん、非常に美しい。しかし、楽章間の休みを置かずに開始される第5楽章の冒頭からの演奏は、それ以上に美しかった。この部分は管楽器のみで演奏される。弦楽器のみの第4楽章によって管楽器の音色に対して聴き手の耳が澄んでいる状態であることをヤルヴィは十分に知り尽くしていて、ここで管楽器のアンサンブルを美しく響かせることに集中したのである。まさに対照の妙。ヤルヴィの才能の証しをひとつ挙げろと言われれば、私は迷わず今回の演奏のこの箇所を挙げたい。
(中村滋延)