2012年7月21日土曜日

至福のオペラ体験《トスカ》ー兵庫県立芸術文化センター

 佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2012《トスカ》を聴いた(720日、兵庫県立芸術文化センターKOBELCOホール)。トスカ=並河寿美、カヴァラドッシ=福井敬、スカルピア=斉木健詞、管弦楽=兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)、指揮=佐渡裕、演出=ダニエレ・アバド、装置・衣装=ルイジ・ベルゴ、他。
 ちょうど一年前、同劇場でのオペラをはじめて体験し(J・シュトラウス《こうもり》)、公演自体もすばらしかったものの、たのしみながらオペラ鑑賞に集中できるその雰囲気にいたく感動した。今回もチケット発売開始直後にすぐ予約するほどその公演をたのしみにし、期待していた。そして期待はまったく裏切られることがなかった。まさに至福の時間を過ごした。
 まずは大胆な舞台装置におどろいた。非常に象徴性のつよい舞台である。中央に大きな円形回り舞台があり、その左右を巨大な複数の柱がとり囲む。その舞台上の大道具小道具の配置と照明とによって「第一幕:サンタドレア・デッラヴァッレ教会」「第二幕:ファルネーゼ宮殿」「第三幕:サンタンジェロ城の屋上」を見事に描き分けていく。特に第二幕では、傾いた円形回り舞台の一番高いところにスカルピアが位置し、トスカやカヴァラドッシを見下ろすことによって、理不尽な権力を象徴する。また歪んだ像を映し出す巨大な鏡を正面に設置し、彼らの内面の思いや苦悩を聴衆に読み取らせるようにする。
 アバドの演出は象徴性の強い舞台装置とは逆に、演技の細部にオーソドックスな心配りの行き届いたもので、筋書きと音楽の進行に非常に自然な感じでなじませていた。象徴的な舞台装置が、むしろ演技の細部への聴衆の視線を集中させる意図のもとに作られたようにさえ思わせた。
 歌手陣はいずれも好演。カヴァラドッシの福井はスケール感こそやや乏しいものの、丁寧な歌い方と美声で聴衆を魅了した。トスカの並河は第一幕ではやや表情が硬く、高音の伸びもやや不安定であったが、第二幕以降は不安定なところなどまったくなく、表情が実に的確で、その振幅の大きさで聴衆に深い満足を与えた。スカルピアの斉木は最初の一声でその威圧的な性格を端的に提示した。声量も十分で、演技もわかりやすく、スカルピアの性格を過不足なく表現した。ただ、その外見にもう少し残忍さを感じさせるようにしてほしかった。客席から見た感じはスマートな現代青年に見えてしまって残忍冷酷の感じは希薄。個人的には、例えばレオ・ヌッチのスカルピアの容貌・演技などはこの役のひとつの規範のように思う。
 佐渡は、プッチーニのこの音楽が音楽としていかによく出来たものであるかを、その指揮によってあますことなく示した。オペラでは、物語内容の現実時間と、音楽によって表現される物語言説の時間とは、まったく異なったものだ。物語言説の時間を不自然に感じさせないのが音楽の力そのものである。その力はその時間が非現実であることさえ忘れさせる。聴衆が音楽時間に感性思考をすべて委ねるからである。その委ねさせる力をプッチーニの音楽はしっかりと持っている。そのことを、音楽の劇的性格とライトモチーフ的音楽語法を巧みに引き出すことによって、佐渡は明確に示した。
(中村滋延)

2012年7月19日木曜日

なぜ「海と水」‥‥? 第46回九州サマーフェスティバル

 第46回九州サマーフェスティバル第一夜「九州交響楽団と福岡出身の若手音楽家による『海と水』」を聴いた(716日、アクロス福岡シンフォニーホール)。演奏曲目は、ワーグナー歌劇《さまよえるオランダ人》序曲、チャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番変ロ短調》、ベートーベン《交響曲第7番イ長調》。ピアノ独奏は高雄有希、指揮はゴロー・ベルク。
 「海と水」というテーマとコンサートの内容との関係がどう考えてもわからない。コンサート開催日が「海の日」だから。日本財団が助成しているから。また「福岡出身の若手音楽家」とは高雄のことなのだろう。プロフィールを読むと彼は福岡生まれらしいから。しかしそれ以上は彼と福岡との関わりは書かれていない。九州サマーフェスティバルには県や市からも助成金が出ているはずで、その理由には福岡出身の若手音楽家を育てたいという思いが込められている。であれば、もう少し彼と福岡との関わりについて書きようがあると思う。
 ちょうどこの一週間前にこのベルクと九響の定期演奏会を聴いている。その定期の曲目はモーツァルトとベートーベン。ところがその定期の編成の方が大きい。コントラバスは8人。時代が下がって管弦楽編成が大きくなっているはずの「サマーフェスティバル」の曲目の編成の方が小さい。コントラバスは6人。弦はそれぞれのパートで明らかに1プルトずつ減っている。これは逆だろう。九響の経営上から配慮によるもので、指揮者の意思ではないように思うが。
 ところで、ゴロー・ベルクはほとんど暗譜で指揮をする。なかなかの勉強家のようだ。明快な指揮ぶりで、管弦楽奏者には分かりやすそうに思える。終始インテンポでぐいぐいと音楽を進めていく。ただ1拍目の強拍にアクセントがつきすぎて、たとえて言えば極端な「楷書」的演奏。したがってベートーベン《第7番》でのテンポの速い楽章ではそれなりに聴かせるが、テンポのゆっくりした楽章では本当に味わいがない。特に第2楽章などはテンポが速すぎて、味わっている余裕がない。この第2楽章では、複前打音の箇所が不揃いで、音が非常に汚く感じる。一週間前の《英雄》の第2楽章でも同じことを感じたが、まさか、バロックのように複前打音を完全に拍の内部でとっていることはないと思うのだが。
 高雄のチャイコフスキー《ピアノ協奏曲第1番》独奏にはがっかり。チラシやプログラム冊子に麗々しく書かれていたプロフィールはインチキではないかと思わせるほど。音も硬質で、およそ美しさを感じさせる音ではない。また、演奏にタメがなく、まったく一本調子のままで進行する。第2楽章ではところどころ管弦楽とずれを生じさせ、第3楽章ではミスタッチとも何度か出くわした。最後まで弾き終わって「よく止まらずに弾ききったね」と思わず励ましの拍手をしてしまったほどだ。
 ところで、40年以上も続いた「九州サマーフェスティバル」は今年で終わるそうだ。クラシック音楽に親しむ機会が減るのは私のような「クラシック音楽大好き人間」にはつらいことだが、「九州サマーフェスティバル」の場合は寿命かなと思う。第一夜と銘打ちながら、そのプラグラム冊子には同フェスティバルの他コンサートの情報はまったく載っておらず、プログラム冊子自体はB5用紙大の4ページしかなく、その中身もきわめて稀薄。曲目解説の文章もお粗末。どのようにして集客しているのか不明だけれど、楽章間に大きな拍手があったり、客席でがさがさと音をさせたり、未就学児童の声がしたりで、客席の聴衆が互いに音楽体験を共有しているという実感がほとんどない。感動には縁遠い。まあ、個人的には、「クラシック大好き人間」の私は音楽に集中する時間があるだけでうれしく、たのしみましたが、しかしこれではクラシック人口は増えないなあ、と実感した。

2012年7月13日金曜日

ビートが聞こえてくるような演奏 —— ゴロー・ベルク指揮の九響


 九響第318回定期「ゲルマン音楽の神髄」を聴いた(7月9日、アクロス福岡シンフォニーホール)。曲目はモーツァルト《魔笛》序曲、《ピアノ協奏曲ニ長調K.537「戴冠式」》、ベートーベン《交響曲第3番 英雄》。指揮はゴロー・ベルク、ピアノは菊池洋子。
 コンサート名での「ゲルマン音楽」とは何のことか、よく分からない。モーツァルトはゲルマンというよりもラテンの香りが濃厚だし、ベートーベンはオランダ系で、狭義のゲルマンではない。指揮者がドイツ人ということで「ゲルマン音楽の神髄」なのか。なにか発想がイージーだ。
 さて、このコンサートの個人的なお目当てが実は《戴冠式》。第2楽章のラルゲットの主題が私の高校生時代にテレビの化粧品CMで流れていた。若いきれいなお母さんが、幼い我が子が遊んでいるのを見守っていて、その子がお母さんのところに駆け寄るとそっと抱き寄せる。そこにこの主題が寄り添うように流れる。もう、最高だった。その思いが残っていて、実は自分の結婚式での新郎新婦の入場の音楽に、この主題を知人のピアニストに弾いてもらったことさえある。
 ベルクの指揮はパキパキという音がまるでビートとして聞こえてくるかのような演奏。活力を感じさせる演奏と言えないこともないが、味わう間もなく音楽が次々と進行していく。当然のことながらテンポも全体的に早め。また異様に低音楽器が強調されているし、木管楽器の音量が抑えめで、管弦楽としての響きのバランスが取れているようには思えなかった。ちなみに私の席は1階25列(やや後ろ寄り)の30番(やや上手寄り)。
 菊池のピアノは軽やかで表情の変化に富んでいて、まるでジャズピアノを聴いているかのよう。それ自体はなかなか魅力がある。ただ、この協奏曲では、ベルクの指揮との関連で、テンポが早め。特に私が個人的にお目当てにしていた第2楽章は、ラルゲットではなくてまるでアレグレット。「違う、おい、違うよ」と、演奏中、心の中で叫び続けていた。
 ベートーベン《英雄》も同様にテンポが速め。特に第1楽章が始まった時に、その速いテンポに驚いた。そして危惧した。案の上、推移部後半のタンタタ・タンタタ・タンタタという八分音符(タン)と十六分音符二つ(タタ)の組み合わせによるリズム音型が明確に演奏されていなかった。この音型はこの楽章間に何度も登場し、この楽章の運動性をもっともよく感じさせる魅力ある楽節を形成する。ベルクの指揮でテンポの速さによってこの音型のリズムのキレがなくなってしまった。
 第2楽章では冒頭の低音弦の複前打音が目立ちすぎて小節の1拍目がきれいに揃っているようには聞こえない。ここでも低音楽器が強調されていて、全体の音量バランスを崩している。また中間部での3つの声部の対位法的絡み合いが聞こえる部分も楽器間の音量バランスを欠いて、個々の声部が独立して聞こえない。特に二分音符による声部が目立たない。これを目立たせると、十六分音符による声部の動きが大変活き活きと聞こえてくる筈なのだが。
 第3楽章では逆にベルクの速いテンポが上手く機能した。
 第4楽章になるとベルクのテンポに慣れてきたのか、さほど違和感なく聴いた。ただし、ここでも楽器間の音量バランスを調整して聴かせるべき声部を浮かび上がらせてほしいと思うところもあった。ト短調のリズミカルな楽句が続くところにフルートの音階進行音型(リズミカルな楽句を対位法的に強調する音型)が相の手を入れる箇所において、そのフルートの音が他の楽器に埋もれてしまっていた。
 総体的な印象としては「聴き逃せない指揮者」(音楽之友)に選ばれるほどの注目を集める指揮者と思うことはできなかった。
 こうして聴き終えると、ベートーベン《英雄》は本当に名曲だということをあらためて感じた。特に第2楽章。他の指揮者の棒で聴いてみたい。
(中村滋延)

2012年7月7日土曜日

身近に感じることの大切さ——学生オーケストラの魅力


 今から40年以上も前、つまり私が高校生から大学生の頃、学生オーケストラ(以下、学生オケ)の演奏水準は今とは比較にならないほどお粗末であった。高校時代、音楽大学受験のために師事していたピアノの先生がコンチェルトを独奏するというので、ある学生オケの演奏会に出かけたが、独奏者が気の毒になるほどにそのオケの演奏はひどかった。大学時代、中部圏を代表する国立大学の学生オケの演奏会に行った時、一緒にいた知り合いのドイツ人が「あれは音楽ではない。彼らはあれでたのしいのだろうか」と憤慨していた。学生オケは義理で行くものであり、音楽を聴くために行くものではない、というのが長い間の私の認識であった。
 その後ずっと学生オケを聴くことはなかったが、2001年に九州芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)に着任した時に芸工オケ(現九州大学芸術工学部フィルハーモニー管弦楽団)の定期演奏会を、それこそ義理で、聴きに行った。私の先入観は打ち破られた。まったく学生オケということを忘れて聴き入ったのである。もちろん演奏の細部には傷がないわけではない。しかしそれらは音楽に聴き入るための障害にはまったくならなかった。昔とは比較にならないほどに演奏技術がうまくなっていたのである。彼らは子供の頃から音楽に触れる機会に恵まれているのだろう。事実、音盤(今はCD及びDVD、昔はLP)の種類も量も今は豊富で、かつ安い。楽器も手に入りやすくなっているに違いない。この体験以降、学生オケの演奏会は私にとって義理で行くものではなくなった。
 いわゆる“プロのオーケストラ”が福岡では九州交響楽団(九響)ひとつだけなので、オーケストラを聴きに行くためには学生オケの演奏会に通うことが多くなる。芸工オケ、九大フィル、福岡学生オケ、など。それらは昔に比べて上手くなったと言っても、大学の同好の志によるアマチュア演奏団体であることには変わりがない。音楽演奏だけに専念できる“プロのオーケストラ”の演奏技術水準に及んでいないことは明白である。もしそれらが同じ水準であるとすれば、それこそ問題だ。しかし感動の度合いは同じか、むしろ学生オケの方が上回っていることが多い。なぜか。
 その理由はその学生オケの存在を聴き手が「身近に感じ」ているということに尽きる。私の場合、日頃接している学生達が舞台上で懸命に演奏している姿を見ていると、私自身があたかも関係者としてリハーサルやゲネプロを聴いているような感じで集中する。そして、この集中が私に感動をもたらした。
 そもそも感動とは絶対的で純粋なものなのだろうか。否、むしろいろいろな外的条件や心理状況などに左右されるものではないか。恋人が弾くショパンを聴く女の子にとっては、そのショパンは感動ものであるに違いない。発表会で幼い我が娘がひくソナチネを親は感動の涙を流して聴くだろう。そこで演奏される音楽を「我がこと」として捉えたことがもたらした感動である。一流の演奏家と音響機能抜群のホールを用意したから、それで即、感動するということにはならない。
 CDやインターネットで一流の音楽を聴くことが当たり前になっているこの時代にこそ、演奏会では、感動を得るために「身近」というのが大切なキーワードになりそうに思う。
(中村滋延)

2012年7月1日日曜日

身近に感じることが感動を‥‥、福岡学生シンフォニーオーケストラ

6月30日アクロス福岡シンフォニーホールにて「福岡学生シンフォニーオーケストラ第9回定期演奏会」を聴く。指揮は寺岡清高。曲目は、ワーグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー第一幕への前奏曲》、J.シュトラウスJr.《青き美しきドナウ》、マーラー《交響曲第1番巨人》。福岡学生シンフォニーオーケストラ(以下、福岡学生オケ)は、九州大学芸術工学部フィルハーモニーや九州工業大学交響楽団、西南学院大学管弦楽団、福岡大学交響楽団、福岡教育大学管弦楽団による合同オーケストラである。
 4日前に九大フィルの定期演奏会を聴いたばかりなのだが、この日の福岡学生オケの演奏にも非常に感激した。もちろん彼らの演奏技量が高かったことと、音楽にかける熱意と愛情によるものである。しかしそれ以外にも、幾分、特殊な理由もある。それは、両オーケストラとも私が授業で接している学生がかなり入っており、そのことでオーケストラ自体の存在を非常に「身近に感じ」たからである。誤解を恐れずに言うと、これらの演奏会では、私自身があたかも関係者としてリハーサルやゲネプロを聴いているような感じがしたのである。つまり、「我がこと」として、まるで自分自身が指揮をしているかのように、ヴァイオリンを弾いているかのように、顧問かマネージャーであるかのように感じ、集中していたのである。実は、この集中が、私に感激をもたらしたのだ。
 感激というのは絶対的なものではなく、純粋なものでもない。様々な状況や関係によって、ひとつの事象に対しての感激の度合いは異なる。一流の演奏家と音響機能抜群のホールを用意したから、はい、それで「OK」とはならない。それらは状況や関係の一つでしかない。今回は「身近に感じ」たという状況や関係が感激の大きな要因だったのである。(「身近に感じ」させることは、じつはプロのオーケストラにとっても大切なことなのだが、これについては別の機会に。)
 しかしそれとても、確かな演奏が土台にあってこその話である。そのことをよく表していたのがマーラー《交響曲第1番巨人》。この曲は個々のモチーフやパッセージに意味が与えられており、モチーフやパッセージの絡み合いによって様々な新たな意味が絶対音楽的持続の上に生じる。寺岡の指揮は、それらの個々のモチーフやパッセージの意味を的確に感じさせるように仕向けていた。例えば、第1楽章のトランペットのファンファーレ(ステージの裏で演奏させていた)、第2楽章のオスティナート、第3楽章のオーボエの主題など。福岡学生オケはその指揮によく応えていた。そして圧巻は第4楽章。構造聴取という知的作業を圧倒的な音量と迫力で無効にし、身体的な快感で聴き手を包み込んでくれた。うん、これもオケの魅力。そのこと可能にしてくれたのが、合同オケならではの多人数による弦楽パートである。それが後期ロマン派の豊穣な音の世界を十分に堪能させてくれたのだ。
(中村滋延)