今から40年以上も前、つまり私が高校生から大学生の頃、学生オーケストラ(以下、学生オケ)の演奏水準は今とは比較にならないほどお粗末であった。高校時代、音楽大学受験のために師事していたピアノの先生がコンチェルトを独奏するというので、ある学生オケの演奏会に出かけたが、独奏者が気の毒になるほどにそのオケの演奏はひどかった。大学時代、中部圏を代表する国立大学の学生オケの演奏会に行った時、一緒にいた知り合いのドイツ人が「あれは音楽ではない。彼らはあれでたのしいのだろうか」と憤慨していた。学生オケは義理で行くものであり、音楽を聴くために行くものではない、というのが長い間の私の認識であった。
その後ずっと学生オケを聴くことはなかったが、2001年に九州芸術工科大学(現九州大学芸術工学部)に着任した時に芸工オケ(現九州大学芸術工学部フィルハーモニー管弦楽団)の定期演奏会を、それこそ義理で、聴きに行った。私の先入観は打ち破られた。まったく学生オケということを忘れて聴き入ったのである。もちろん演奏の細部には傷がないわけではない。しかしそれらは音楽に聴き入るための障害にはまったくならなかった。昔とは比較にならないほどに演奏技術がうまくなっていたのである。彼らは子供の頃から音楽に触れる機会に恵まれているのだろう。事実、音盤(今はCD及びDVD、昔はLP)の種類も量も今は豊富で、かつ安い。楽器も手に入りやすくなっているに違いない。この体験以降、学生オケの演奏会は私にとって義理で行くものではなくなった。
いわゆる“プロのオーケストラ”が福岡では九州交響楽団(九響)ひとつだけなので、オーケストラを聴きに行くためには学生オケの演奏会に通うことが多くなる。芸工オケ、九大フィル、福岡学生オケ、など。それらは昔に比べて上手くなったと言っても、大学の同好の志によるアマチュア演奏団体であることには変わりがない。音楽演奏だけに専念できる“プロのオーケストラ”の演奏技術水準に及んでいないことは明白である。もしそれらが同じ水準であるとすれば、それこそ問題だ。しかし感動の度合いは同じか、むしろ学生オケの方が上回っていることが多い。なぜか。
その理由はその学生オケの存在を聴き手が「身近に感じ」ているということに尽きる。私の場合、日頃接している学生達が舞台上で懸命に演奏している姿を見ていると、私自身があたかも関係者としてリハーサルやゲネプロを聴いているような感じで集中する。そして、この集中が私に感動をもたらした。
そもそも感動とは絶対的で純粋なものなのだろうか。否、むしろいろいろな外的条件や心理状況などに左右されるものではないか。恋人が弾くショパンを聴く女の子にとっては、そのショパンは感動ものであるに違いない。発表会で幼い我が娘がひくソナチネを親は感動の涙を流して聴くだろう。そこで演奏される音楽を「我がこと」として捉えたことがもたらした感動である。一流の演奏家と音響機能抜群のホールを用意したから、それで即、感動するということにはならない。
CDやインターネットで一流の音楽を聴くことが当たり前になっているこの時代にこそ、演奏会では、感動を得るために「身近」というのが大切なキーワードになりそうに思う。
(中村滋延)
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